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Finland feature
13年前、フィンランドから始まったインプレッサの快進撃

Letter from SWRT
1 September 2006

FIA世界ラリー選手権(WRC)で活躍するマシンの中でも代表的な象徴の一つ、SUBARUインプレッサ。参戦14年の間、コリン・マクレー、リチャード・バーンズ、そしてペター・ソルベルグとラリー界の名だたるドライバーたちがそのステアリングを握り、これまでに選手権タイトル6回、WRC46勝をマークしている。今や伝説的な存在とも言えるSUBARUインプレッサがその競技デビューを飾った場所が、ラリーの聖地・フィンランドだった。

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1993年8月25日、SUBARUワールドラリーチーム(SWRT)は1000湖ラリーで初めて、555カラーに彩られたSUBARUインプレッサのアンベールを行った。販売車としてのインプレッサがまだ発売されたばかり。そのラリー仕様をできる限り早く発表することは、マーケティング面でも非常に効果的であった。このインプレッサは、1990年のサファリ・ラリー以来WRCで活躍してきたレガシィに替わって、SWRTの戦闘機としての活躍を始めたのであった。

現在、SWRTの購買マネージャーを務めるナイジェル・リドルは、1993年当時、チームのメカニックとして活躍していた。彼は、インプレッサの実戦投入までの苦労を鮮明に覚えている。 「インプレッサの開発には相当の時間を費やしましたが、フィンランドに向けて新型マシンを2台製作するのもかなりの激務でした。新型マシンのために、設計を行い、スペアパーツを発注し、ホモロゲーションを申請しなくてはならなかったのです。さらに当時は施設もだいぶ小規模でしたし、とにかくチームスタッフ全員、総掛かりでイベント現場にも遠征していたのです。ですから、本当に少人数でマシン製作を行っていました。実際、その時にはチームのほとんどが、ニュージーランドでのラリーのために、地球の裏側まで出かけていたのです」

しかし、リドルはマシンを完成させるというチームの強い意志と、その対応力があることを確信していた。
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「とても苦労しましたが、全員が懸命に働き努力していましたから、我々には成し遂げられるという自信がありました。ニュージーランドでレガシィが初勝利を挙げた時には肩の荷が降りる思いでしたし、ライバル勢にもっと詰め寄って挑むためにさらにいいマシンを作りたいと思ったのです」

当時、WRCの強豪ライバルには、トヨタやランチアがいた。双方併せて16タイトルもマークする強者の間を割ってシリーズに参戦したSUBARUにとって、それはまさに牛若丸が弁慶に挑むような戦いだった。現在、SWRTのワークショップマネージャーを務めるジョン・バーンズは、当時ワークショップのスーパーバイザーを務めていた。彼は、インプレッサがSUBARUをさらに熟練したチームの仲間入りをするまでに成長させると最初から信じていた。 「我々はレガシィで学んだことの多くを、新しいインプレッサに取り入れました。旧型のアドバンテージやディスアドバンテージの全てを学び、サスペンションコンポーネンツを再設計して、製作プロセスを評価して、サブ・アッセンブリーでは慎重を徹しました」

このインプレッサが初めてMIRAのテストコースで見せた走行で、チームの期待は限りなく高まった。ほぼ全ての局面において、レガシィのパフォーマンスを上回ったのだ。インプレッサのホイールベースはレガシィよりも60mm短い一方で全長は170mm短縮されたことにより、ハンドリングが強化された。ブレーキシステムも勝り、馬力が15-20アップしたことで、エンジンの加速感とレスポンスが向上。新型のオールアルミエンジンをさらに後方にレイアウトし、ホイールの間に重量を課したことで、さらに効果的な重量配分を行ったインプレッサは、さらに安定感が増し、コーナーでのハンドリングが容易になった。

SWRTのボディショップマネージャー、デイブ・ベーカーは、1993年当時サスペンションとサブ・アッセンブリー担当のメカニックを務めており、フィンランド直前の数週間、このマシンの作業を担当していた。彼は弱点を最先端に転じさせた技術について語る。 「このインプレッサのインタークーラーには、新式のウォータースプレーを投入しました。レガシィのインタークーラーとフロントのラジエターは水冷式だったのですが、空気が度々フロントを塞ぐため、その都度水温がMAXにまで上昇してしまっていたのです」 インプレッサには、別方式のさらに効率的な冷却システムを搭載していたとベーカーは続ける。 「ドライバーがアクセルを踏むと、インタークーラーに向けてジェットスプレーが噴水されるのです。この方法はかなり安定していましたね」

SWRTがフィンランドに到着すると、ラリー関係者はさっそく新型マシン見たさに集まった。この時エントリーした2台のSUBARUインプレッサ555のステアリングを握ったのは、地元フィンランドのスーパースター、マルク・アレンとアリ・バタネン。アレンはSS1のコーナーでワイドランした際に石にヒットしフロアにダメージを負うという苦いスタートを迎え、ここでリタイアとなった。
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「自分のキャリアの中でも、最大のミスだよ」と当時アレンは語った。「あまりにマシンのフィーリングがいいものだから、すぐに全開アタックをかけてしまい自滅してしまった」
しかしバタネンは、このイベントで大活躍。SS3でベストタイムをマークすると、レグ2まではラリーリーダーに立ったのだ。しかし、夢のようなデビュー戦も、簡単にはフィニッシュを迎えさせてはくれず、フロントガラスの曇り取りがトラブルを起こしてスローダウンしたバタネンは、ユハ・カンクネンにリードを奪われてしまった。とはいえ、手堅く2位を獲得したバタネンの走りは、実に見応えのあるものだった。

「アリは、見事な走りを見せてくれました」とバーンズは振り返る。「彼はラリーのほとんどでリードを牛耳りましたが、ナイトステージでフロントガラスの曇り取りにトラブルが起きてしまいました。これで20秒を失い、ユハに勝利を譲ることとなったのです。我々は2位に終わりましたが、しかし接戦の末の2位でした。我々には、インプレッサのデビュー戦で、こんなに素晴らしいリザルトを残すことができたことが、とにかくうれしかったですね」

そして、SWRTがインプレッサ初勝利。それは1994年のアクロポリス、カルロス・サインツがドライバーだった。サインツの勝利で、ラリーマシンでも、販売車としてのプログラムとしても、インプレッサは初期段階での成功を収めたのだった。そして1995年にはコリン・マクレーがチームに初めてのシリーズタイトルをもたらし、その頃、販売車の方は一躍ヒットセールスを打ち立てた。ラリーマシンと販売車が明らかに類似していることでインプレッサは人気を集め、1992年から1993年にかけての販売台数は400%以上もアップ。その勢いはその後も続き、1995年までにインプレッサの販売は英国だけで5万台にも上った。

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13年経った今、インプレッサは再び、かつて1000湖ラリーと呼ばれたラリー・フィンランドのエントリーリストに名を連ねる。インプレッサの名は変わらないが、内部コンポーネンツの多くはデビューから大きな進化を遂げている。1993年当時、アリ・バタネンがギアチェンジに使っていたのは、メカニカルのギアシフト。今やペター・ソルベルグは、ステアリングコラムの両サイドに取り付けられた油圧パドルを使い、セミオートマチック・トランスミッションでSUBARUインプレッサWRC2006を操る。この改良により、ソルベルグは1万分の1秒という、F1マシンも凌ぐ速さでシフトチェンジを行うことができるようになった。SWRTはアンチラグシステムの開発により、ターボのレスポンスを改良し、スロットルは旧式のケーブル式に替わりフライ−バイ−ワイヤーが採用されている。もちろんこうした改良を遂げるため、各コンポーネンツの製作にはさらに人力が必要とされるようになった。例えば1993年当時、160人時をかけて行っていたボディシェルの製作は、2006年仕様では780人時が必要となる。

そしてインプレッサが辿ってきた変化と同じくらい、ラリー・フィンランドも様々な変化を迎えてきた。SWRTスポーティングディレクター、ルイス・モヤが初めてフィンランドに参戦したのは、フォード・シエラ・コスワースで参戦した1988年のこと。当時をこのように振り返る。 「我々はユバスキラから車で2時間ほどのテンペレまで出かけていた」とモヤ。「イベントのコース範囲は全体で500−600kmにも及び、現在よりも多くの村を通過した。1日のサービスポイントももっと多く、1レグの間に20回以上行うこともあった。その頃は、拠点となるサービスパークというものがなかったからね。どのチームも、サポートカー10台にヘリコプター、それにパーツ運搬のためのバンを4台ほどは使っていたのではないかな。今はこうした設備はサービスパークを拠点に据え置きして、1日のサービスも3.4回ほどになったけれど」

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しかし、モヤはそれほど過去には固執はしていない。「ラリーのフォーマットが変わっても、イベントの特色はそのままだ。ステージは高速でスムース、そして大ジャンプも健在だ。オウニンポヤは、相変わらず1年の中で最もチャレンジングなステージだ」モヤはうなずきながら、「黄色の家」のそばからスタートして6km地点に待ち受ける大ジャンプ(地元ではヤンプと呼ばれる)で名高い、脅威の高速ステージのことを思い出す。ここではマシンが何十mも空中を飛ぶ。2003年には、マルコ・マルティンが新記録を打ち出し、時速171kmで57mの飛距離をマークした。しかしその速度も限度に達した2005年、オウニンポヤは2つのステージに分割され、今ではオウニンポヤ・ランシとオウニンポヤ・イタと呼ばれている。「必要不可欠だった」とモヤ。「しかし、2つに分けても、伝統的なステージであることに変わりはない」

モヤは、フィンランドのエキスパートと呼ばれて然るべき存在。1990年には、パートナーのカルロス・サインツが勝利を収め、フィンランドを制した唯二のノン・スカンジナビアンのうちの1クルーなのだ。この貴重な経験を持つモヤは、現在のSUBARUドライバー勢にどんなアドバイスを与えるのだろう?
「道はワイドで的確なラインをつかむことが難しいので、マシンコントロールは不可欠。正確なペースノートを作成しなくてはならないが、より重要なことは、とにかく最初の最初からスピードに乗って行かなくてはならないということだ」


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