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Australia feature
クリス・アトキンソンの急成長の変遷

Letter from SWRT
17 November 2006


弱冠26歳のクリス・アトキンソンは、短いラリーキャリアながら数々の記録をマークしている。2004年、グループNマシンで初参戦したラリー・オーストラリアでは、総合5位でフィニッシュ。これはこのイベント17年間の歴史の中で、グループNエントラントでの最上位リザルトだ。2005年にSUBARUワールドラリーチーム(SWRT)に加盟し2005年の世界ラリー選手権(WRC)への本格参戦を始めたアトキンソンは、フルタイムでWRCのシートを獲得した初めてのオーストラリア人となった。この年、ポディウム1回、ベストタイム14回をマークしたアトキンソンは、最も成功したオーストラリア人WRCドライバーとなったのだ。2006年にはモンテカルロで6位フィニッシュ。その年にモンテに初参戦したドライバーの中での最上位につけた。2002年にプロのラリードライバーとして活動を始めたばかりのアトキンソンとしては、悪くないリザルトだ。


アトキンソンが初めて参加したモータースポーツは、実はモトクロスバイク。オーストラリア・ニューサウスウェールズ州のベガにあるダートトラックでのことだ。 「初めてバイクを手に入れたのは12歳の時だった」とアトキンソンは振り返る。「最初は楽しんでいただけだったけど、次の年にはレースを始めた。2年間続けていたけれど骨を折ってばかりいたし勉強の妨げにもなったので、学校に専念するためにあきらめなくてはならなかった」

それから5年間、アトキンソンは勉学に専念し、数々の賞も受けた。1997年にはクイーンズランド州ゴールドコーストにある名門ボンド大学の奨学金を受け、貿易学、財政学、会計学の修士を学んだ。大学時代をビールや日中のテレビ鑑賞に明け暮れる学生も多い中、アトキンソンはモータースポーツへの興味が再燃した。
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アトキンソンがラリーにはまるのも無理もない話。父親のジョンは、ニューサウスウェールズ州ラリー選手権でタイトルを2回獲得しているラリーストであったし、兄のベンもドライバーとしてラリーを始めたところだったのだ。

ビールを楽しむのはほどほどに、アトキンソンは大学の合間に、ベンが参戦するクイーンズランド州ラリー選手権の観戦にいそしんだ。最終的には観戦だけでは飽きたらず、アトキンソンは大学での最後の年、ついにラリーマシンに乗り込むチャンスを得る。 「あいにく、高校や大学時代にはドライビングはしていなかったんだ」とクリスは語る。「でも大学の最終年、友人のスティーブ・オーランドが1973年型トヨタ・カローラでビアバーナム・クラシックに参戦する時にコ・ドライバーを務めた。とにかくハマッたよ」

それから、株仲買人としての将来に方向変換が生じていく。アトキンソンのラリー熱は沸騰し、ブリスベンの会社でのプライベート顧客のアドバイザーとしての仕事を辞め、兄のためにコ・ドライバーをするようになった。 「修士までとって仕事を辞めたという自分の選択に後悔はないよ。うまく行けばこんなにエキサイティングなことはない。でも財政が崩れてしまった時は、仕事も散々だ。楽しい仕事だったけれど、フルタイムでラリーをするようになってうれしかった」

家族内の関係はコックピットにもそのまま受け継がれ、ベンがドライバーシートに座り、クリスがノートを読み、傍らでジョンがアドバイスをおくった。この3人が最初に得たマシンは1971年型のトヨタ・カローラ。これでベンはオーストラリアの地域選手権に挑んでいた。しかし2戦も過ぎるとクリスは自分でドライブをしたいと思うようになったため、2000年のクイーズランド州ラリー選手権最終戦で、兄弟はシートを交替。1度試すだけのつもりだったにも関わらず、弟クリスはドライバーとしての才能を披露し、そのシートはそのまま固定されて新たに経験を積み始めることとなった。

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ラリードライバーとしては、これだけ年齢を重ねてから初めて競技に参戦するのは、かなり珍しいこと。アトキンソンにとって、ハイレベルで参戦するためにはできるだけ急いで技術を習得することが不可欠だったため、その年の終わりにはリック・ベイツ主宰のラリースクールに入校した。その必然性がうなずけるようなエピソードをアトキンソンは語る。 「僕は本当にラリーが大好きだったのだけど、どうやってマシンをコントロールしたらいいのか、サッパリ分からなかった。最初のラリーの時、パンクをしたと思った僕は、チェックしてタイヤ交換を行おうとマシンをコース脇に止めた。ところが、パンクなんてしていなかったんだ!それでも3位に入ったけど、そんなことが起きるなんて夢にも思わなかったよ・・・」

スクールでは、ラリーの基本を教わったとアトキンソンは語る。「ペターやセブ、マーカスがもっと若い時に学んだようなことだよ」ラリーの集中レッスンを受け、クラブイベント数戦に参戦したアトキンソンは、2001年に本格的にラリードライバーとして始めるだけの自信を身につけ、クイーンズランド州ラリー選手権開幕戦「カルーラ・クラシック」に挑んだ。父ジョン・アトキンソンは、このラリーで経験少ない息子クリスが類い希なる才能を見せたことを思い出す。 「クリスは、充分な速さを持っていた。最初からだ。いつもシェイクダウンやテストでは隣に乗ってアドバイスを与えていたのだが、あいつはとにかく飲み込みが早かった。ほんの数戦に参戦しただけだったが、その時には既にいいドライバーになるだろうと思っていた」ジョンの見込みが正しかったことは、すぐに証明された。参戦開始後、ステージ走行が80kmにも満たないうちに、アトキンソンはこのカルーラで、クラストップ、総合3位を獲得したのだ。

弟の活躍で、あいにくベンにとっては、半分は自分のものである車のドライバーシートに返り咲くことはなくなってしまった。 「僕たちが初めてマシンを買った時は交替で運転していたのだけど、それから僕の調子が上がり始めたので、ベンがドライブすることはなくなっちゃったんだ!」とアトキンソンは振り返る。「彼はかなりハッピーだったと思うよ。とてもいいコ・ドライバーだったんだから。今でも、アジア−パシフィック・ラリー選手権でコディ・クロッカーのコ・ドライバーを務めているんだからね」

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2001年、アトキンソンはクイーンズランド選手権でクラス勝利を4回獲得し、N4クラスのチャンピオンに輝いた。勢いをつけたアトキンソンは、翌年のオーストラリア選手権にグループN三菱ランサーでプライベート参戦。国内選手権レベルでの参戦初年に、どのイベントでもグループNトップ10、総合でもトップ20という見事な活躍を見せた。オーストラリア選手権史上最も激戦となったこの年、若手のアトキンソンは総合9位に入り、プライベーターチャンピオンに輝いた。 「ラリーである程度の成績を残せるようになるまでには何年かかかると思っていたけど、思い返してみればかなり早かったね」とアトキンソン。「2年目の開幕戦を勝利で飾ることができたのはいい滑り出しだったが、そこでチャンスを得られたことはより重要だった」

実際、それはビッグチャンスだった。キャンベラでの開幕戦にスズキが訪れ、アトキンソンを新型マシンのテストに招いたのだ。テストでの成果に加えシリーズでのリザルトを評価され、アトキンソンは、2003年アジア−パシフィック・ラリー選手権(APRC)参戦に向けてスズキとの契約を行った。「僕たちにとって、APRC参戦はとてもいいチャンスだった」とアトキンソンは振り返る。「それまでにまったくやったことがなかったテストを行うこともできたし、ファクトリーチームのことを学んだり、いろいろなイベントに参戦することもできた。オーストラリア選手権でのイベントにはたくさん参加したけど、それから一気に日本やニュージーランド、インドにまで行くようになったんだ。どのイベントもそれぞれ全く違う局面を持っていて、コンディションも厳しく、どうすれば速くなれるかということをすぐに学ぶことができた」

アトキンソンは実に速いドライバーで、APRC開幕戦のキャンベラでクラス勝利を収めると、ニュージーランドでは2位、タイとインドでは再び勝利を獲得。そして競技歴わずか3年目にして、FIA選手権のスーパー1600クラスのチャンピオンに輝いた。しかし、さらに偉業と言えるのは、すべてのクラスを通しての総合順位でも、よりパワフルな4WDターボマシンを押しのけて5位に入ったことだろう。
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その年の終わり、アトキンソンは自身のキャリアの大きな岐路となる契約を行う。SUBARUに加入し、オーストラリア選手権への復帰とWRC数戦に参戦することになったのだ。オーストラリア選手権では堂々の活躍を見せ、全6戦中3勝をマークしたほか、アトキンソンに最も迫ったドライバーのほぼ2倍近い数のステージウィンを獲得した。アトキンソンの成功はオーストラリア国内だけに留まらず、APRCでもスーパー1600タイトル防衛に成功。さらにWRCイベントでも、ニュージーランド、フィンランド、ジャパンでは非凡な速さを見せつけ、WRCワークス勢の注目を集めた。

「SUBARUでのチャンスもいい巡り合わせだった。いろいろなラリーに出ることで、いろいろなタイプのマシンをドライブすることができる。すべてを一度に経験できるんだ」とアトキンソン。「もちろんできるだけいいリザルトを獲得したかったし、どのイベントでもより上を、より速く走ることを目指した」
グレン・マクニールをコ・ドライバーに迎えたのも、この年が初めてだった。アトキンソンとマクニールが初めて一緒に参戦したラリーは、それほどいい滑り出しとは言えなかったが、今では強い絆で結ばれている。「初めて一緒に参戦したのは中国だったが、その時は体調が絶不調。具合が悪かった上にクラッシュした」とアトキンソンは笑う。さい先のいいスタートではなかったが、しかし有りがたいことにマクニールはそれにメゲることもなく、2人の友人として、そしてチームメイトとしての関係は維持された。2005年に英国へ移ってからは、2人は一つの家をシェアして暮らしている。 2004年の終わり、成長目覚ましいアトキンソンに特に注目したのが、SWRTオペレーションディレクター、ポール・ハワースだった。
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「我々は、2005シーズンに向けて若いドライバーを探していた」と振り返るハワース。「クリスはAPRCで、P-G・アンダーソンの資金獲得につながるようないい走りをしていた。いいリザルトも出していたし、自分のキャリアを次のレベルに向ける準備が完全に整っていた。ジャパンで彼のドライブを見た時は、本当に感心したよ」

「クリスを選んだのは2つのシンプルな理由」とハワースは続ける。「素のスピードと才能だ。これほどの短期間でこれだけの速さを伸ばしたことは、驚くべきこと。短いキャリアの中で、素晴らしい成長を見せ、大きな前進を果たしている」 ペター・ソルベルグやリチャード・バーンズ、コリン・マクレーといった名手を若手の頃から見守ってきたハワースにとって、このコメントはかなり高い賞賛を贈っていると言える。「ドライバーには2つのタイプがある。ほどほどの速さを身につけては行くが成長しないタイプ、そして始めるだけで素晴らしいスキルを発揮するタイプ。クリスは間違いなく後者だ」

契約は成立、そしてアトキンソンは2005年のスウェーデンで、SWRTでのデビュー戦を飾った。初めてファクトリーマシンのWRカーに乗るという使命は、クリスにとって果てしないほど大きい。その重責を全うするため、オーストラリアの家族や友人と離れ、英国での新しい生活に挑んだ。 「ヨーロッパへ行ったことなんて、ほんの数回しかなかった」とクリスは思い返す。「ヨーロッパのラリーは何度かしか参戦したことはなかったけれど、チャンスをつかんだからにはヨーロッパに移り、前に進み始めた。そうする以外になかったし、それほど悩むこともなかった。WRCをやっていきたければ、それが唯一の方法だったから」

英国で生活することの効果は着実に現れた。アトキンソンもそう語る。「チームの近くにいるのはいいよ。そうすれば学ぶことができる。とても重要なことだよ。できる限りの参戦準備を整えることができるし、エンジニアと話したり、マシンのことも学ぶことができる」その価値はあった。SWRTでのデビュー戦、しかも雪の上でのドライブも初めてという状況の中、アトキンソンは総合9位でフィニッシュしてみせた。 「スウェーデンで信じられないような速さを見せたよ」とハワースはコメントする。「それまでほとんど雪を見ることなどなかった彼なのに、あんなコンディションでのドライビングもお手の物だった」

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その後、ベストタイムも何度となくマークし、その年の終わり、アトキンソンよりもステージウィンを多く獲得したのは、ソルベルグ、ローブ、そしてグロンホルムだけだった。さらにアトキンソンは、ラリー・ジャパンで初ポディウムも達成した上に、母国イベントのラリー・オーストラリアでは、一時ラリーリーダーに立ったのだ。 「ジャパンは、彼の最も素晴らしい走りの一つだった」とハワースは付け加える。「SUBARUのホームイベントでの参戦という非常に大きなプレッシャーの中、実に落ち着いたドライブだった。他がコースオフした時にはアドバンテージを握り、プレッシャーにも負けなかった。彼にはあのリザルトを獲るだけの価値があった」

その年の終わり、アトキンソンは最も成功を収めたオーストラリア人ドライバーとなった。それまでのWRCに参戦して最も成功したオーストラリア人、ロス・ダンカートンのベストリザルトは1992年ニュージーランドでの3位で、5年間に計46ポイントを獲得。一方アトキンソンはわずか1シーズン半で、既に21ポイントを挙げている。

しかし、アトキンソンのシーズンは、好リザルトと同じくらいコースオフによるリタイアも多かった。最初からハワースも承知の上だが、これも若手ドライバーが成長する過程のひとつなのだ。 「若手ドライバーが成長するには、痛みも伴う。自分の力量を見極めさせなくてはならないのだ。どのようにコーナーをクリアするか、正しいブレーキングポイントをつかむかといったアドバイスも与えることはできるが、本来才能を持ち合わせているドライバーには、話す必要はない。彼らは自分で自分の限界をつかんでいく。彼らに必要なのは、正しいタイヤチョイスや、リピートステージへの攻め方、エンジニアとの協力の仕方といったようなことなのだ」ハワースは、アトキンソンの将来性にはそうした指南が活きることを知っている。
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アトキンソンは、自分のパフォーマンスをできる限り向上すべく努力を続けている。 「彼は非常に聡明で、テクニカル面でのフィードバックの飲み込みも早い。それに彼は、我々が育てたいと思っているような、素の速さを持っている。彼がすべてを把握した時には、それは素晴らしいドライバーになるよ」

「常に全力を注いでいる」とアトキンソン。「より速く、より丁寧な方法を考えるように努めている。他のドライバーが速いところを研究するためにビデオを見たり、彼らがどうやって、そしてなぜ速いのかを見つけるようにしている。ペターも僕を助けてくれる。僕たちは一緒に仕事をしているんだ。お互いにチームのリザルトに貢献できれば、こんなに良いことはない。体力作りも一生懸命がんばっているよ。自分が全力をかけているということを把握しなくちゃならないからね」

今年、堅実にフィニッシュすることを目指していたアトキンソンのリザルトは非常に安定しており、イベントを隅々まで学んだ。ハワースはコメントする。「ジャパンのようなトリッキーなコースも攻略できて、初参戦のモンテカルロでトップ6タイムを出せるなら、彼に出来ないことはないだろう」

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