1990年、コリンはフォードの若手育成プログラムのもとで英国ラリー選手権を走っていた。
だが、あまりのクラッシュの多さから、シーズン終盤には最後通牒を言い渡される。途方に暮れるコリン。そんな彼が秘めていた底知れぬ可能性に注目し、声をかけたのが、WRC初年度を戦い終えようとしていたSUBARUだった。グループAレガシィは、ポテンシャルの高さは見せながらも、まだまだ熟成が必要。その状態は、若きスコットランド人のそれと符合していた。「ならば、ともに成長していこう」。SUBARUは彼をレガシィに乗せて1991年の英国選手権に送り込む。そして、このコンビネーションはシリーズ7戦中4戦を制覇し、コリンは史上最年少でのブリティッシュチャンピオンに輝くことになった。
|
 |
1992年、SUBARUはコリンをWRCのレギュラードライバーに引き上げた。しかし、立場や挑むステージが変わっても、いつでも全開アタックを仕掛けていく彼のスタイルは変わらなかった。速いことは間違いないが、クラッシュの連続が収まらない。さすがのSUBARU首脳陣の一部も、無鉄砲としか思えなくなってきたスコットランド人を起用し続けることに異論を唱え始めた。そんな声を懸命に抑え続けたのが、STI初代社長の久世隆一郎だった。当時の久世は、四面楚歌に近い状態にあった。WRC活動2年目を迎え、「今度こそ勝てる」と言い続けながら惨敗を喫し続けていた状況に、狼少年呼ばわりする者さえいた。にもかかわらず、勝てないどころか自滅を続けるドライバーを、久世は擁護し続けた。それだけこの若者に惚れ込んでいた。「攻め」の姿勢を崩すことなく勝利を目指そうとするコリンに、WRCで這い上がろうとしているSUBARUそのものの姿を見出していたからだ。
だからこそ、新鋭機インプレッサのデビューが次戦に控えた1993年のラリー・ニュージーランドで、コリンがSUBARUにとっても自分自身にとっても初めてのWRC優勝をつかみ取ったことを、久世は心から喜んでいた。そんな彼への感謝の気持ちを、コリンが失うこともなかった。
|