1995年、史上最年少記録(27歳3カ月)でWRCチャンピオンの座に上り詰めたスコットランド・ラナーク出身の青年は、特注したカットグラスのプレートを久世に贈っている。コリンの心のこもった感謝の言葉が刻まれたそのプレートを、久世は「一番の宝物」として生涯大切にしていた。

コリンがSUBARUのワークスドライバーとして走ったのは1998年まで。だが、その後もSUBARUとの仲は親密であり続けた。近年では、アメリカのXゲームに2年連続してインプレッサで出場し、持ち前のアグレッシブなドライビングでファンを沸かせている。WRCへのレギュラー参戦は2003年までとなったが、シュコダからスポット参戦した2005年の最終戦ラリー・オーストラリアでは、トラブルでリタイアを喫するまで2位を激走し、衰えぬスピードと勝利を目指す情熱を示してみせた。そして2007年、40歳が目前に迫りつつあったコリンは、WRCへのカムバックを果たすべく精力的に動いていた。「今を逃したら、もうチャンスはなくなるだろう。だけど、僕にはまだWRCを戦うために必要なスピードがあると信じているし、何より情熱があるんだ」。そう語っていた矢先、悲劇的な事故が彼を襲った。2007年9月15日のことだった。
不世出のラリードライバーがこの世を去ってから10日後、その葬儀が彼の生まれ故郷の教会で執り行われた。この日、スコットランドはラナークの小さな街は、コリンとその愛息ジョニーの早すぎる死を悼む2万人近くものラリーファンによって埋め尽くされ、バグパイプの演奏による「フラワー・オブ・スコットランド」が鳴り響いた。WRCチャンピオンに輝くこと1回、WRC通算25勝という記録は、今となっては決して突出したものではない。だが、豪快さの中に美しさすら宿していたそのドライビング、そして負けることを徹底的に嫌い、常に最速を狙っていったそのパーソナリティは、今もファンの心を捉えて離さない。記録より記憶に残るドライバー、という表現は、コリン・マクレーにこそふさわしい。

すべてのスペシャルステージを最速で走ればラリーに勝てる。それは間違いではないものの、現実的でもない。ところが、それなりのキャリアを積んでもなお、そんな途方もないアプローチで走り続けようとしたラリードライバーがいた。それが若き日のコリン・マクレーだった。その速さは「破壊的」とさえ評されたが、実際クラッシュも多く、名字をもじって「マックラッシュ」というありがたくないニックネームも頂戴していた。

1990年、コリンはフォードの若手育成プログラムのもとで英国ラリー選手権を走っていた。
だが、あまりのクラッシュの多さから、シーズン終盤には最後通牒を言い渡される。途方に暮れるコリン。そんな彼が秘めていた底知れぬ可能性に注目し、声をかけたのが、WRC初年度を戦い終えようとしていたSUBARUだった。グループAレガシィは、ポテンシャルの高さは見せながらも、まだまだ熟成が必要。その状態は、若きスコットランド人のそれと符合していた。「ならば、ともに成長していこう」。SUBARUは彼をレガシィに乗せて1991年の英国選手権に送り込む。そして、このコンビネーションはシリーズ7戦中4戦を制覇し、コリンは史上最年少でのブリティッシュチャンピオンに輝くことになった。
1992年、SUBARUはコリンをWRCのレギュラードライバーに引き上げた。しかし、立場や挑むステージが変わっても、いつでも全開アタックを仕掛けていく彼のスタイルは変わらなかった。速いことは間違いないが、クラッシュの連続が収まらない。さすがのSUBARU首脳陣の一部も、無鉄砲としか思えなくなってきたスコットランド人を起用し続けることに異論を唱え始めた。そんな声を懸命に抑え続けたのが、STI初代社長の久世隆一郎だった。当時の久世は、四面楚歌に近い状態にあった。WRC活動2年目を迎え、「今度こそ勝てる」と言い続けながら惨敗を喫し続けていた状況に、狼少年呼ばわりする者さえいた。にもかかわらず、勝てないどころか自滅を続けるドライバーを、久世は擁護し続けた。それだけこの若者に惚れ込んでいた。「攻め」の姿勢を崩すことなく勝利を目指そうとするコリンに、WRCで這い上がろうとしているSUBARUそのものの姿を見出していたからだ。

だからこそ、新鋭機インプレッサのデビューが次戦に控えた1993年のラリー・ニュージーランドで、コリンがSUBARUにとっても自分自身にとっても初めてのWRC優勝をつかみ取ったことを、久世は心から喜んでいた。そんな彼への感謝の気持ちを、コリンが失うこともなかった。