サーカムは、「生活は順調だよ。ラリーを離れても自分の生活を満喫している。新しい仕事は直接モータースポーツとの関わりはないけれど、早くもやり甲斐を見いだしている。今はインドネシアのジャカルタを仕事の拠点にしていて、シンガポールで暮らしているんだ」と語り始めた。
サーカムとSUBARUとの縁は、1993年、伝説的なSUBARUの名手、ピーター・“ポッサム”・ボーンがラリー・オーストラリアでの悲劇的なアクシデントでコ・ドライバーのロジャー・フリースを失い、その後をサーカムが受け継いでから始まる。
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ボーン/サーカム組が最初に参戦したイベントは、同年9月の「555香港−北京ラリー」。中国で開催される大規模なモータースポーツイベントということもあり、チームにとっては重要な位置づけ。この時のSUBARUでのチームメイトは、アリ・バタネンとコリン・マクレーだった。
「あのイベントの思い出のひとつは、ラリーで好成績を収めた後、あるメディアの企画で、3台揃って天安門広場でドーナツターンを披露したことだね。中国のシンボルである名所のド真ん中で、我々の3台が一斉にタイヤから煙を巻き上げたんだからね。痛快だったよ」
サーカムは、その後も同郷のボーンのコ・ドライバーを続け、その間、オーストラリアやアジア−パシフィック地域で勝利を重ね、文字通り、FIAアジア-パシフィック・ラリー選手権(APRC)でのSUBARUの歴史を築いた。
「1990年代の後半にSTIと富士重工業が若手の日本人ドライバーを世界選手権で活躍させることを目指していて、私はSWRTと共にそのプロジェクトに関わっていた。それまでトシ・アライと組んだことはなかったが、すぐに彼が才能と落ち着きを備えていることがわかった。彼はマシンが暴れても、動揺することがなかった。1998年からは、グループAで参戦すると同時に、グループNマシンでも数戦に参戦していた。私は、2001年のRACラリーで初めてトシのコ・ドライバーになった。その後、2002年は正式にコンビとなり、その後6年間にわたって共に働くことになった」
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