「6年の間にはいろいろなことがあったが、面白いことに、最高も最悪も同じ一戦だったんだ。それは、最後のWRC開催となった、2002年のサファリ・ラリー。序盤、サスペンションにトラブルというトラブルが全て発生して、その後は原因不明のクラッチトラブル、でも最終日の午前中には首位に立った。残念ながら、そのクラッチトラブルが原因で最終的にはリタイアとなって僕らのこのラリーは終わったけれどね。苦労に苦労を重ねてついに最終日、首位に立つ・・・地獄の後の天国だよ。こんな経験、滅多にできるものじゃない。でも、純粋にいい思い出のあるイベントもある。2006年のラリージャパンだ。WRカー勢の中で6位フィニッシュしたことは、我々にとって忘れられないイベントだね」
「世界レベルでのラリー競技におけるトップブランドとして、SUBARUを背負って活躍する日々は、とても充ち満ちていた。コンペティターとして、これ以上のお膳立てはない。私のモータースポーツ生活18年のうち、16年間もSUBARUの一員だったんだ。その間、私の目前で、インプレッサは世界的なブランドに育っていった。私は今でもSUBARUを所有しているし、これからもそうするだろう。そのキャリアの中で私の拠り所となっていたのは、勝てるマシンに乗っているという自覚だった。どんなコンペティターでも、自分に勝てるチャンスがあると分かっていれば大きな励みになる。私のキャリアの中では、それがSUBARUだったわけだ」

サーカムは、数々の功績を打ち立てて、2007年には2度目の世界タイトルを獲得した。この絶頂というべき時期になぜ、ラリーをやめることにしたのだろうか。

「その時点で私は47歳。あと20年も、コ・ドライバーを続けることはできない。現実を見つめなくてはならないし、家族のことを考えて、古くからのオファーを受けることに決めたんだ。今の仕事は、ジャカルタにある石炭と海運の企業で、マーケティング・ディレクターに就いている。インドネシアは、世界最大の石炭輸出国なんだ。でも、まったくモータースポーツと関わりがなくなったわけではなく、8月末には会社の仲間と、ラリー・インドネシアに参戦するんだよ。もちろんマシンはSUBARUだよ。私の生活には、いつもモータースポーツがあり続ける。いつでもラリーがね」
世界チャンピオンの転身
新井敏弘のコ・ドライバーとして、新井を二度のP-WRCワールドチャンピオンに押し上げた立役者は、ニュージーランド出身のトニー・サーカムであった。そのサーカムは、前年末をもってコ・ドライバーを引退し、現在はシンガポールで第二の人生を歩んでいる。

サーカムは、「生活は順調だよ。ラリーを離れても自分の生活を満喫している。新しい仕事は直接モータースポーツとの関わりはないけれど、早くもやり甲斐を見いだしている。今はインドネシアのジャカルタを仕事の拠点にしていて、シンガポールで暮らしているんだ」と語り始めた。

サーカムとSUBARUとの縁は、1993年、伝説的なSUBARUの名手、ピーター・“ポッサム”・ボーンがラリー・オーストラリアでの悲劇的なアクシデントでコ・ドライバーのロジャー・フリースを失い、その後をサーカムが受け継いでから始まる。

ボーン/サーカム組が最初に参戦したイベントは、同年9月の「555香港−北京ラリー」。中国で開催される大規模なモータースポーツイベントということもあり、チームにとっては重要な位置づけ。この時のSUBARUでのチームメイトは、アリ・バタネンとコリン・マクレーだった。

「あのイベントの思い出のひとつは、ラリーで好成績を収めた後、あるメディアの企画で、3台揃って天安門広場でドーナツターンを披露したことだね。中国のシンボルである名所のド真ん中で、我々の3台が一斉にタイヤから煙を巻き上げたんだからね。痛快だったよ」

サーカムは、その後も同郷のボーンのコ・ドライバーを続け、その間、オーストラリアやアジア−パシフィック地域で勝利を重ね、文字通り、FIAアジア-パシフィック・ラリー選手権(APRC)でのSUBARUの歴史を築いた。

「1990年代の後半にSTIと富士重工業が若手の日本人ドライバーを世界選手権で活躍させることを目指していて、私はSWRTと共にそのプロジェクトに関わっていた。それまでトシ・アライと組んだことはなかったが、すぐに彼が才能と落ち着きを備えていることがわかった。彼はマシンが暴れても、動揺することがなかった。1998年からは、グループAで参戦すると同時に、グループNマシンでも数戦に参戦していた。私は、2001年のRACラリーで初めてトシのコ・ドライバーになった。その後、2002年は正式にコンビとなり、その後6年間にわたって共に働くことになった」