61号車SUBARU BRZ R&D SPORTチーフメカニック 宍戸克幸
夏の鈴鹿サーキットは、まさに灼けるような暑さです。SUPER GT第5戦鈴鹿ラウンドの搬入日となった 8月22日(金)も、最高気温37度を記録しています。そんな中、SUBARU MOTORSPORT MAGAZINE記者(MSM)が、車検対応を終えたSUBARU BRZ R&D SPORTチーフメカニックの宍戸克幸にお話を聞きました。
MSM 今回は宍戸さんがこの世界に入った経緯をお聞きしたいと思います。
宍戸 私は千葉市の幕張メッセの近くで育ったのですが、ずっと水泳をやっていて、学校から帰ったらすぐスイミングスクールに行く毎日でした。なので、友達と遊んだり、漫画を読み耽るという経験は少ないんですよ。没入するタイプなんでしょうかね。そんな中、1987年に中嶋悟さんがF-1デビューしましたけど、それをテレビで見て衝撃を受けましたね。第2次スーパーカーブームだったし、石原軍団の派手なカーアクションで有名なTV番組が好きで特にスカイラインがカッコいいと思っていました。ある日、千葉の販売会社ショールームにニスモのグループCカーが展示されているのを知り、毎日自転車で見に行きました。中学から高校卒業までずっとレースやカッコいいクルマに憧れていたので、進路として選んだのがレーシングメカニック養成コースもある自動車整備の専門学校でした。そこでは、モノづくりの基礎を学んだ感じです。
MSM 就職先に選んだのがレーシングチームだったんですね
宍戸 専門学校2年の時、神奈川県愛川町にある日産系チームがメカニックを募集していたので、履歴書を送りました。一度お断りの返事をいただいたんですが、募集は続いていたのでめげずに履歴書を送りました。その時もお断りの返事をもらったのですが、それでも諦めずに書類を送り続けました。多分即戦力となる経験者を求めていたのだと思いますが、そんなことは知らず募集が続いている間はトライしようと決意していました。何度かそれを繰り返したのち、相手も根負けしたのか、とりあえず来なよ、ということになりました。在学中でしたが、早速お手伝いをするため愛川町に通いました。その流れで晴れて4月から従業員になることができました。1995年のことでした。オーナーは日産ワークスドライバーだった方で、今でもニスモの名誉顧問をされている方です。入社の時、「君は諦めない人だね、スタッフになったんだからしっかりやってね」、という感じのお話をされたと記憶しています。しかし、入ったばかりは何ヶ月も掃除ばかりで、レーシングカーは触らせてくれません。それでもSUPER GTとJTCC(当時のツーリングカー選手権)の両方をやっていたので、とにかく忙しかったですし、一所懸命やりました。テストとレースが交互にあるし、レースがない時はオーバーホールして次のレースウィークまでに元に戻さないといけないので。
MSM そのチームでは何年間働いたのでしょうか。
宍戸 なんとかレースカーのリアセクションを担当させてもらえるようになり、デフやサスペンションのメンテナンスに励みました。やるとなったら、とことんやり続けられる性分なんだと思います。入ってから12年目の2007年には、GT500マシンのチーフメカニックになり、常駐していたニスモのエンジニアから色々指導を受けました。しかし、チームの周辺環境は決して順風満帆だったわけではなく、GT500は2009年限りで活動を終え、2010年はGT300に専念することになります。財政的に厳しかったんだと思いますが、それでもドライバー達が頑張ってくれて、最終戦もてぎにランキング4位で臨むことになりました。その結果はポールトゥウィンであり、逆転チャンピオンも手に入れられました。あの感激は格別でしたし、忘れ難い思い出です。またあの感激を味わいたいというのが、この仕事を続けられる原動力になっているのだと思います。
MSM そこからR&D SPORTに転職したわけですね。
宍戸 そんな簡単な話ではないんです。2011年のレース活動継続が難しそうとなった時、3月に東日本大震災が発生し、私達メカニックは待機するように指示されました。本来ならレースシーズン開幕のために忙しく準備していなければならない状況なのに、です。そして、最悪のお知らせを聞きました。チームはその月をもってレース活動を休止することになり、メカニック達は全員が仕事を失いました。ちょうど長女が産まれた時だったので、家族が増えるのに無職とは・・・。そこから他のチームはもちろん、他の業種への就職も考えました。サーキットで知り合いになった多くの方々が心配してくれたのですが、ある人を介してR&D SPORTの本島社長が会ってくれることになりました。これは運命ですよね。チームがSUBARUと提携するようになって2年目のことでした。入社を認めていただいたので、すぐにSUPER GTの仕事を継続できることになりました。R&D SPORTと、以前のレーシングチームとは全く雰囲気が異なりました。R&D SPORTは独自のレースカーを開発して運用しているようなチームであり、そこからそのマシンをロードカーとして販売する計画もありました。会社の組織も設備も全く違うので、私自身が意識や考え方を変える必要がありました。
MSM これからレースメカを志そうとしている若者にアドバイスはありますか。
宍戸 私が若い時は、その時代こそが特殊だったかもしれません。また、私の場合は小さい時からずっと水泳を続けてきたので、多少の過酷な環境に対しては耐性があったかもしれません。今はこの業界も働き方が変わってきて、少人数でクルマをメンテナンスし、徹夜の作業も稀ではない、というやり方では若い人たちが憧れる職業として残ることはできません。とはいえ、なんでも先輩が手取り足取り教えてくれるわけではありません。若者であれば、失敗を恐れず貪欲にいろんな知識を身につけるべきだし、自分なりに考えて行動することが肝心です。結果が良い時も、そうでない時も、平常心を失わないこと。そうすれば、他の仕事では味わえないような感激を味わうことができるかもしれません。

宍戸さんは、普段は家庭を持つ一家の大黒柱です。大学生の長男さんは建築家を目指して勉強中とのこと、2011年に産まれた長女さんは受験生だそうです。レースがない週末に、娘さんが映画を観たいと言ったら一緒に出かけるような優しいお父さんでもあります。ちなみに愛車は、SUBARUインプレッサSPORT。職場まで毎日のクルマ通勤に使っているそうです。宍戸さんと話していて、彼が純粋な心を持つ人である一方、厳しい環境にも負けない精神力を持ち合わせていると感じました。SUBARU BRZ GT300のメンテナンスを担当している宍戸さんとは、そんな頼もしい人物なのです。